クソログ

強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない

筋肉を鍛えることの価値

俺が筋肉を鍛えることの価値について強く意識するようになったのは、銭湯に通うようになってからである。

銭湯には年配の方が多いのだが、そのほとんどが、餓鬼のように腹が飛び出しただらしない体をしている。

若い頃はたいてい何もしなくても健康な体が維持できるため自分がそのような姿になってしまうことをなかなか強くイメージすることができないし、肉体で周囲の若者と差別化することも難しいので体を鍛えることに価値を見出しにくい。

たが、歳をとれば何もしないで筋肉美を維持することは困難であるし、老化による怪我、疾病リスクの上昇も避けられない。

したがって歳をとればとるほど、筋肉を鍛えることの価値は上昇していくのではなかろうか。

寝たきり老人のほとんどは筋力低下による骨折などによるものだ。仮にそうなってしまえば、どれだけ金を持っていようと、どれだけ名声を得ていようと、死に体も同じだ。一流企業に勤めていても病気になり働くこともできなくなれば、年収0円である。

 

銭湯にいけば、そこにはおそらくいろんな立場の人間がいる。社会的地位の高い人間もいれば、そうでない人間もいるだろう。

だが、銭湯に行き、装飾を剥ぎ取り裸になれば、そうしたものがいかにか細いものであるかよくわかる。銭湯にいけば金持ちだろうと貧乏人だろうと今の自分のありのままの肉体をさらすしかない。

俺は金を持ってるぞ、と言っても、「でも、お前だらしない体したブタじゃん」と言われればそれまでだ。ごまかしようがない。

会社に行けば権力者かもしれないが、走れば5分ともたない、10キロのバーベルも持ち上げられない、そんな不甲斐なさを自覚すれば自分がビッグな人間などという幻想は即座に打ち砕かれる。

 

金で筋肉は買えない。

人は体を鍛えている人を無条件で尊敬する。それは自分を律することでしかできないことだからだ。

自分を律することができる人に対して人は自然と信頼や尊敬をよせる。

そのような信頼や尊敬によって支えられて抱く自信は本物ではなかろうか。

筋トレとは地位も肩書きも抜きにした、素のままの自分を客観的に認識し、それを磨き上げる作業なのだ。