クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

宮森はやと、この度人生の大きな決断をしました。

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事あるごとに、決意ばかりしている。
だからなのだ。だから、弱いのだ。

どうしようもなく、本当に、強い人というのは、決意をしない。たとえば、イチローなどがそうである。
イチローに、「いつ、決意されましたか?」と問うたら、「そんなものしていません。」と無碍無く返されてしまうだろう。イチローは、決意をするより以前から野球をしており、イチローは決意をするより以前からイチローだったのである。

「決意」というのは妄想である。幻想である。無駄である。実際の所、決意など、何の役にも立たぬのである。一匹のゴリラがある日突然に、今日から人間として生きると決意しても、ゴリラはゴリラである。お下げを結っても、ランドセルを背負っても、スクール水着を着ても、ゴリラはゴリラである。どれだけ強い決意を持ってしても、決して人にはなれぬのである。人間として生きるには、人間として生まれる以外に道は無い。

ところが、みやもさんは、何をするにもまず決意である。決意が無くては、始まらない。決意、決意の大安売り。決意、決意の山また山。決意決意の雨あられである。

イチローと野球の間には、決意なんて存在しなかっただろう。これは憶測にすぎないけれど、僕はそう思う。同じように羽生善治と将棋の間にも決意は存在しなかっただろうし、宮本茂とゲームの間にも、決意は存在しなかっただろう。

イチローが野球を始めたのは、親が無理矢理に野球をさせたからである。イチローには、決意をする暇なんて無かったはずである。とにかく野球をするしかなかったのである。宮本茂も同じである。宮本茂がゲームを作り始めたのは、会社が仕事を割り振ったからである。宮本茂には、決意をする暇なんて無かったはずである。とにかくゲームを作るしかなかったのである。ビルゲイツにしても、羽生善治にしても、同じだろう。決意なんて、無かったのだ。

マロリーと登山の間にだって、決意なんて無かった。ただ、「そこに山があっただけ」なのである。

凡人は、決意を大切にする。決意というものを神格化して、とても大事にする。平凡な自分と、天才と呼ばれる成功者達の間に横たわる壁は、決意の壁だと考える。決意を行う事により、僅かは、少しは、幾らかは、彼らの手にする成功へと近づけると思い願っているのである。
そして、決意するのである。これが、大きな間違いである。

「私がイチローに近づくには」という問いに対する最も真っ当な回答は、「バットを毎日振る」である。「私がスティーブ・ジョブスに近づくには」という問いに対する最も真っ当な解答は、「糞OSがプリインストールされたPCを馬鹿に高値で売りつける」だろう。

「決意」というのは、それら当たり前の事を行いたくない、無責任な人民が作り出した幻想にすぎない。砂上の無力な楼閣である。自らに気合いを入れて、鼓舞して、頑張って、やる気を出して、決意決意を繰り返している人は、もう、完全に、駄目な人である。あちらの世界に行ってしまった人である。

何かを凄く好きで、何かを凄く愛している人は、あんまりヴァァァーーーってならない。
ヴァァァーーーってならずに、穏やかで静かな凄く好きが続く。山もなく谷もなく、ずーっと好きで、ずーっと愛してる。何かを凄く好きになるには、心の体力がいっぱい必要なので、何かを凄く好きになれる人ってのは、そんなに多くはいない。

「凄く好きだよ」「愛してるんだ」なんてふうに着飾る人は大勢居るけれど、その実態は、ちょっと好きなものや、ちょっと気に入ったものを、「凄く好きなんだ」「愛してるんだ」ってことにして、人生を豊かにしているに過ぎない。

ヴァァァーーーってなる人はすぐにヴァァァーーーってなるし、なんにもでヴァァァーーーってなる。凄く好きだヴァァァーーー、愛してるヴァァァーーー、最高だぜヴァァァーーー。声を張り上げては叫ぶが、息が途切れるなりそれを止める。ゼエゼエ肩で息をして膝に手を突いて、コップの水をごくんと飲んで、次にヴァァァーーーと叫んだ時には、他のものに対して叫んでいる。さっきとは全く別の他のものにたいしてヴァァァーーー、ヴァァァーーー、って叫んでる。

世の大半、ほとんど全ての人にとって、「凄く好き」とか、「愛してる」なんてのは処世術の一つであり、人々にとっては自身の感情ですら、道具の1つでしかないのだ。