クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

縁によって生かされていることを知れば貪りによる苦しみは和らぐ

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落ち着いて考えれば考えるほど、人生というものがくだらなく思えてきてしまて仕方がないのだ。わたしの人生が、ではなく、人間の一生というものが。
くだらない、というよりも儚いという言葉の方が適切かもしれない。
いや、やっぱりわたしの人生が、かもしれない。というか、自分のほしいものを手に入れていない多くの一般人の人生が、だな。<略>
結局、身近な小さな幸せを見つけて死んでいくありきたりな一生なんて、羨ましくもなんともない、というのは、わたしの本心だろうか。


自分のほしいものを思いのままに手にし、ありきたりではない人生を送れれば人は満足できるのだろうか。

物質や精神、社会、人間関係など世の中のあらゆるものは一定ではなく、絶えず変化し続けている。これを諸行無常といい、この世の真理の一つである。
我々は金や物、地位や名誉、人間関係や自分の肉体に至るまで、様々なことを「変わらない」と思い込んでいる。だからこそ、欲しいものは必ず手にしなければならないという「執着」が生じる。だが、たとえ、自分のほしいものを全て手に入れたとしても、絶えず変化しているこの世界では、それは永遠に続くものではなく、いつかは手放さねばならず、失われていく運命にある。自分自身も含めこの世の全てのものは無常の存在なのである。

したがって、自分の欲するものすべてをたとえを手にしたとしても、やがてそれを失うとき、あるいは持続できないことで苦しみが生じる。また、ほしいものはなんとしてでも必ず手に入れなければならないという執着は、ほしいものが手にすることができないときの苦しみを増大させる。
欲しいものを手にするべきではないということが言いたいわけではない。ただ、自分のほしいものを手に入れることのできない人生はくだらない、ほしいものが手に入らない人生に意味はないといった極端な思想や貪りは苦しみを増大させ人間を破滅に向かわせる。仏陀はこの状態を「無知」と言った。


全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、というのもこの世の真理の一つである。自分の命も、財産も、全て自分のもののように思いがちであるが、世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しているに過ぎない。自然環境と同じように、絶妙なバランスの上に成り立っている。こう考えると、自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係のなかで生かされている存在であると気づかされる。

世の中のあらゆるものが無常であると知れば、一期一会の出会いを大切にし、自分をめぐる仕事や人間関係の一つひとつのことも丁寧に謙虚に愛情を込めて行うことができる。生かされている命で毎日を大切に生き、自分本位でなく周りへの思いやりを持って行動することは、苦しみの原因である執着をコントロールすることにもなる。

この世には何一つ思い通りになるものはなく、望んだとしても完全に手に入れられるものなど存在しない。それにも関わらず、人はありとあらゆるものごとへ不変を望み、そこへ執着してしまう。このジレンマによって苦しみや悩みが生じるのである。こう考えると、苦しみに満ちたこの世界は、全て人の心が生み出しているものといえる。