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愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

オナ禁日数66日目 職業の貴賤と逆転の発想

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街コンに参加して、話をしていると仕事内容や社会的ステータスなどで値踏みされていると感じることが少なくない。自分の職業について知るや否や、相手の態度が急速に変化してしまうということがある。

「職業に貴賤なし」といった言葉があるが、そんな言葉が存在していること自体、貴賤があることの証明なのではないか、という気もする。

そんな時、自分は価値のない人間なのか、と打ちひしがれてしまいがちである。だが、これは見方を変えれば、社会的ステータスのみで判断する人間から好かれなくて済むということでもある。

彼女らは、こちらから聞かなくても、自分から自分は嫌な人間だということを知らせてくれているのだ。これがもし、仮に彼女らの目に適う社会的ステータスを持った自分であれば、彼女らも好かれようと必死になるだろうから、彼女らが本当に嫌な人間かどうかはこちらが見極めなくてはならなくなる。
人を社会的ステータスで値踏みする人間から好かれたい人間はいない。自分から社会的ステータスや収入、その他もろもろの装飾が取り払われたとき、自分の何を好いてくれているか確信がもてないからだ。自分の価値や存在の意味が、社会的ステータスや収入しかないと知ることほど苦しいことはない。

以前のバツイチの上司と飲んでいた時、「金の切れ目が縁の切れ目だよ」と言っていた。転職をして収入が減った途端、別れを告げられたという。金や社会的ステータスのみでつなぎとめられている関係や、それらを失った瞬間に何もかも消え去ってしまう関係にいったい何の価値があるというのか。

もしかしたら経済力やステータスも、それを手にするために努力できる、人間性の一部であるといった声もあるかもしれない。たしかにそのとおりである。
現代日本には「努力すればきっと報われる」といった風潮があるけれど、努力しても報われないこともある。現実主義者のマキャベリも「必要なのは力と運だ」と述べているように、高い収入や社会的ステータスが無いというだけで努力不足だと切り捨てるのはあまりに狭量ではないだろうか。

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