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愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

最高の人生を送っているはずの人間が自殺とはこれ如何に

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www.ikedahayato.com

やっぱり、妻がいてよかったです。妻がいなければ、たぶんぼくは自殺しているか、刑務所にいると思います。マジで。相当救われています。

日々、サラリーマンや東京で暮らす人をつまらない生き方だとを非難し、自身の生き方を自由で先進的で一流であると正当化してきたイケダハヤト。
仮に本当に、イケダハヤトの生き方が、他人を非難できるほど、自由で、先進的で、一流の生き方であるとしよう。にもかかわらず「妻がいなければ自殺している」とはいったいどういうことだろうか。

イケダハヤトが普段から最高だと主張している、人に雇われず、自由な時間に好きなだけ働けて、煩わしい人間関係にも悩まされず、豊かな田舎でお金も稼げる生き方は、妻がいないというだけで、自殺しないといけない程度のものでしかないのだろうか。
もしイケダハヤトのプロブロガーとしての生き方が、妻がいないという理由で自殺や犯罪行為に走らなければならないのだとしたら、家族の為に東京で消耗しながら働いている人といったいどれほどの違いがあるというのだろう。

やはりイケダハヤトがこれほどまでに執拗に大企業やサラリーマン批判にこだわるのは「自己価値の喪失」が原点にあるからだと思う。
彼は最初からブロガーとして生計を立てようと考えていたわけではない。大学生の頃はブログは書いていなかったし、新卒でルネサスという大企業に入社した。これは僕の予想でしかないが、おそらくそこで人と上手くコミュニケーションをとれず、馴染めなかったとか、上司から厳しい叱責があったとか、何らかの挫折感があったのではないだろうか。イケダハヤトには高い学歴があった。しかし大企業という高圧的な構造を持つ組織の内側にいる限り、その能力を有効に放出することは不可能であるように思えた。それはトライバル・メディアに転職しても変わらなかった。
だからこそ、イケダは世間のレールからはずれても、もっと融通のききそうな、実験的な新天地としてブログを書きはじめたのだ。そういう意味では野心的ではあったと思う。だが、そのころのイケダには経済的な基盤がなかった。収益を最大化するためにイケダにできるのは炎上商法と書籍を大量に転載することくらいしかなかった。

炎上や、他人のふんどし、情報商材ビジネスで金は得られたかもしれないが、それに伴ってネガティブな評価も増幅していった。結局イケダの自己価値の喪失感は埋まらなかった。イケダの金を稼ぐ能力やフォロワーの数を賞賛する人間はいても、彼の文章を書く能力や資質そのものを賞賛する人間はほとんどいなかった。だから彼は自己価値の喪失を埋めるために、いまだにサラリーマンや大企業を非難し、自分の生き方や選択が正しく、それを選択しようとしない大多数の人間は愚かであると発信することで、自分は価値のある人間なのだと主張し続けているのだ。だが、彼が価値あると考えている最高の生き方は、妻がいないだけで自殺したくなる程度のものでしかない、非常にか細いものなのだ。

しかし、どこの誰が「いや、自分はなんでもない人間ですから、社会システムの歯車の中で削りおろされて死んでいってもべつにかまやしないんですよ。」と考えているだろうか。多かれ少なかれ誰しも、自分がこの世界にこうして生きている意味を、そしてほどなく死んで消えていく意味をできることなら確かめたいと思っている。そのようにかけがえのない生き方を真摯に求めるという行為自体、別に非難される筋合いのものではない。にもかかわらず、どこかで「ボタンのかけ違え」がはじまる。
先日、言及した「社会的生産性のない人間や変化のできない人間は死ぬべき」と発言していたブロガーにも共通していることだが、自身が価値ある人間だと主張するために、他者への攻撃や煽りをせずにいられなくなるのだ。

彼らは、いつも他人より優れていなければならないという心に捉われてイライラして苦しそうに見える。
では、どうすればこの自己価値の喪失とそれに伴う憎しみと怒りと苦しみから抜け出せるのだろうか。それは、他人への「感謝」ではないかと思う。