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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

自己存在価値を求める欲望について

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約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

読んだ。

癒されることを求めた彼らが、なぜ「サリン事件」という救いのない無差別殺人に行き着いたのか。彼らはなぜ現世を生きぬくことができなかったのか? どこに夢の地を求めようとしたのか? 信者、元信者たちへの徹底的なインタビューと河合隼雄氏との対話によって、現代が抱える心の闇を明らかにするノンフィクション。

僕自身は宗教や霊的なものに関心があるわけでもないし、信仰があるわけでもない。ただ、彼らが何に惹きつけられて教団に入ったのかには興味があったし、ずっと不思議だった。

オウムが発足した1980年代後半、日本中がバブル経済に浮かれ、享楽と自信に満ちていた。一般の人々が物質的な豊かさを謳歌する中で、一部の若者たちは、欲望の充足をひたすら追い求める高度消費社会と、それを支えてきた高度管理社会というシステムに対し、「何かがおかしい」と感じはじめた。
まさにかつてミシマユキオが予言したとおりの日本社会が訪れたのであった。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」。

人々が空気のように物質的な豊かさをむさぼり吸っている傍らで、そうした価値観を是とする社会に居場所を見つけられない人たち、魅力を見出すことができない人たち、精神的な拠り所が無い人たちがいた。それがオウム信者だった。

幹部をはじめ、信者には高学歴なインテリも多かった。なぜ知能の高いはずのエリートたちが、あんな胡散臭いわけのわからない宗教にのめりこむのか、と誰もが疑問に思ったことだろう。だが、「高学歴にもかかわらず」ではなく、高学歴だからこそ彼らは、自分がただ物質的な豊かさを貪り食って、老い、死んでいくだけの群衆の1人に過ぎないことに、我慢ならなかったのだ。優秀だからこそ、そうした生き方の空虚感、限界、いわば「先」が見えてしまったのだ。

彼らは、大資本や社会システムという非人間的で功利的なミルの中で、自分たちの資質や努力が、そして彼ら自身の存在の意味までもが、無為に削り降ろされていくことに対して、深い疑問を抱かないわけにはいかなかったのだ。


出家せず一般企業に勤めていれば、ある程度の経済的・社会的地位を手にすることもできただろう。しかし彼らにとってみれば物質的な豊かさを求める社会の歯車として、消費・消耗していくだけの群衆の1人に過ぎない。そこに大きな自己存在価値の喪失感があったのではないだろうか。だからこそ彼らは地位を捨て、世間のレールからはずれて、もっと融通のきく、実験的な新天地を求めた。それが宗教だった。そして、自分を特別な人間だという精神的充足感を与えてくれるオウムの教義にはまっていったのである。

「自分の価値を損ないたくない」「自分の価値を認められて、価値ある自分でいたい」という感情は大なり小なり誰もが持っている。以前、レールに沿ったつまらない人生は嫌なので4ヶ月で大学を中退し起業すると宣言した大学生がずいぶんと話題になったが、対象は違えど、彼の根底にある動機は当時の若者と非常に似ているものを感じた。

「このまま、周りと同じように3年後は就職活動をし、4年後には働き始める。」

そんな、いわゆる「普通」の人生に自分が満足できるのかって考えたときに、「そんな人生は絶対に嫌だ!」と思ってしまいました。

このまま、なにも考えずに生きてるような人たちと同じ人生を歩むなんてありえない。

そう思ったんです。


唯一無二の自分でありたい。群衆の1人じゃない自分でありたい。自分に価値を見出せる自分でありたい。そういう心につけこまれて信者たちは自分を洗脳していったのだ。

それは新興宗教に限らず、今の社会問題にも通底しているのではないだろうか。電通鬼十則なる理念などを信仰し、顧客満足に血道を上げ、社員を過労死に追いやったり、資本主義経済の価値観に沿っているというだけで、特定の理念や価値観を盲信しているという点では、根底はオウム信者となんら変わらない。信仰の対象がグルではなく経営者に、組織が会社に置き換わっているだけだ。
もちろん教団が起こした一連の事件は許されるものではない。だが、カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常ではなく普通の人々だということだ。

彼らは少しばかりまじめにものを考えすぎるのかもしれない。心に少しばかり傷を負っているのかもしれない。まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ。

人は多かれ少なかれ、特定の価値観に影響を受け、自分の信じたいものを信じている。
あれは頭のおかしい連中が引き起こしたもので、自分には直接関係のないことなのだと人間の本質を直視しようとしない限り、特定の団体を潰してもオウム的なるものはこの社会に生き続けるのだろうと感じている。