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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

散るろぐが人気ブログになった理由

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cild.hatenablog.com


ファンが増えるにつれてアンチも増えていくのは宿命なのかもしれないが、散るろぐにおけるファンになる者とアンチになる者の価値基準の違いとはいったいなんなのだろうか。

僕は散るろぐの記事はほとんど読んでいるし、はっきり言ってまったく嫌いじゃない。

なぜ嫌いじゃないからというと文章表現におけるセンスがあるからである。
あるいは僕自身、散るろぐに限らずブログそのものに対して「中身のある内容」などというものを最初から期待していないからかもしれない。

ここでいう「中身のある内容」というのは読者にとって有益であるとか、書かれている内容に確かなエビデンスが背景にあるとか、論理的整合性があるといったことなんだろうけれど、それだったら最初から体系的な書籍や文献でも読んだ方が確実だろう。

でもブログは特別な知識を持たない一般人にも開かれており、誰でも簡単にはじめることができるわけで、そういう人たちがこぞって有益な情報を生み出そうとする方がむしろ歪なのではないかという気もする。
ではどうすればいいのか。中身の無い平凡な日常や気づきを如何にして表現するかでしかない。そこにブログとしての面白さが宿るのではないかと思う。救いがあるのではないかと思う。そういう意味で散るろぐはセンスがあるし、それが今日の人気ブログに成長した理由であると僕は思っている。

文中での具体例を挙げれば、

いつからか、ブログが資産だとか言われて、僕たちの文章が、お金で蹂躙されてく過程を、僕は目の当たりにしてきた。
それはまるで、平和だった村に、十字軍の旗を掲げた鉄面皮の兵士が現れて、僕の大切な家族や友人、大好きだった、花や、木や、森や、小川を、お金という業火で焼き尽くすような光景だった。

という箇所などは独特な言語感覚である。有名なブロガーでもこういう表現をする人はあまりいない。散るろぐにはこのような表現が散りばめられている記事がたくさんある。
おそらく、チルドのセンスは数多くの小説を読むことで培われたものなのだろう。

散るろぐを好きになれるかどうかは、こういう文そのものを面白いと思えるか、あるいは価値を感じることができるかどうかだと思う。
逆にこういうのが楽しめない人間は梶井基次郎の「檸檬」でさえ「本を積み上げた上に檸檬を置いて、その黄金色の爆弾が爆発したら面白くね?」ってだけの中身の無いクソみたいな内容という感想しか持てないだろう。

作家の高橋源一郎は小説と付き合うことを「ボールをつかまえること」だと言った。
小説を読んでいるとうんこやゲロを食ったとか、ドラ◯グをキメて乱痴気騒ぎをするとか、常識や社会通念を逸脱したような表現に遭遇することがしばしばある。
ボールをつかまえることができない人というのは、そういう文章を読むと(ボールが来ると)ただ単に「気持ち悪い」とか「意味がわからないからつまらない」としか思えなかったり、あるいは本気で怒ったりする。

だから散るろぐを読めない人、本気で怒っている人たちはおそらく小説も読めない。正確に言えば、文字として読むことはできても、それを一歩引いた目線から受け入れて楽しむことができないのだ。