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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

ブログを続けるには

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僕がブログを書き続けていられるのは、僕がやがて跡形もなく死ぬからである。その歴然たる現実の前には、炎上することや、ブログが金にならないことや、幸せになれないなど、実に些細でどうでもいいことでしかない。

望んでもないのに生まれてきて、やがて死んでいく。僕はそれがどうしても許せなった。なぜ、生きたくもない人生をわけもわからぬまま生きさせられ、わけもわからぬまま死んでいかなければならないのか。

僕が何を考え、何を想い、何を感じたのか。それを記さずには死ねない。それがどれだけ稚拙でくだらないものであったとしても、それを残さずして死んでいくことは許せなった。

僕が生きたという感情を、言葉を、何も残せないのだとしたら、生きている意味は何もない。最初から存在しなかったのと同じことだ。それがたとえ単なる言葉だとしても言葉すら残せないのは生きていないのと同じことだ。生まれていないのと同じことだ。ただ風に揺れているだけの草木と同じだ。

僕にしてみれば、なぜブログを書かず生きていけるのか理解できない。なぜブログを書かなくても平気なのかが理解できない。ブログを書かなくても平気な人間が存在することがまったくもって理解できないのだ。

死んでしまうのだ。死んでしまえば何も残らないのだ。何も残らないということは自分がこの世に生を受けたという事実は何も残らないのだ。そしてその何も残らなかったという現実は未来永劫続いていくのだ。

死にたくない。消えたくない。どうせ死ぬのになんで生きていかなきゃいけないのか。どうせ死ぬのになんで幸福にならなきゃいけないのか。どうせ死んでしまうのになぜ、僕は僕という意思をもって生まれてきたのか。

僕が僕という意思を持っていること。それが確かにこの世に存在したという証を残すこと。それだけは譲れない。
僕が死んでもブログだけは生きる。ブログが生きるということは僕がブログに書いた言葉だけは残る。それがたとえどれだけ惨めでつまらない苦しみ喘いだ屈辱だらけの人生だったとしても、僕が書いた文章だけは残る。

それがブログを書く動機、コアである以上、ブログを書くことをやめることなど決してあり得ないのだ。