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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

この世のもっとも純粋な喜びは、他人の喜びをみることだ

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現代人というのは、もうドラマティックな死ができなくなってしまった。現代の死は、病気にしろ、交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものの無い時代に我々は生きています。

それにつけて、思い出しますのは、18世紀ごろに書かれた「葉隠」という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名な本なのですが、この時代もやはり今と似ていた。もう戦国の夢は覚めて、武士は普段から武道の鍛練はいたしますが、なかなか生半なことでは、戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。

その中で、汚職もあれば、社用族もあり、今でいえばアイビー族なんてものも、侍のあいだで出てきた時代でした。その中で葉隠の著者は、いつでも一か八かの選択では死ぬ方を選ばなきゃいけないと、いう事を口を酸っぱくして言うのですが、著者自身は長生きして畳の上で死んでしまった。そういうふうに、武士であっても結局死ぬチャンスがつかめないで、死というものを心の中で描きながら生きていった。 

それを考えると、今の青年は、スリルを求めることもあるでしょう。あるいは、いつ死ぬか?という恐怖もないではないでしょうが、死が生の前提となっているという緊張した状態にはない。
そういう事で、仕事をやっているという時に、なんというか生の倦怠といいますか、ただ、人間が自分のためだけに生きようということに、卑しいものを感じるのは当然であります。

人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ねるというほど、人間は強くない。というのも、人間は何かの理想なり、何かのためというのを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きるのにはすぐに飽きてしまう。すると、死ぬのも、何かのためというのが必ず出てくる。それが昔言われた「大義」というものです。そして、大義のために死ぬということが、人間の最も華々しい、英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられている。

しかし今は、大義が無い。これは民主主義の政治形態というのは、大義なんてものはいらない政治形態ですから、当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値を認められなければ、生きていることすら無意味になるような心理状態が無いわけではない。

リルケ詩集 (新潮文庫)

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