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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

義道VSフランクル

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中島義道という哲学者がいる。

彼は、著書で人類の根源的なテーマである「どうせ死んでしまうなら、なんの意味もないじゃん・・・」という悩みに対して、「そんなことは考えず、働いて、家族をもって、真っ当に生きろ」と言ってごまかす世の大多数の大人を、「反吐が出るほど軽蔑する輩」と罵りまくっている。社会のルールに従って、仕事において評価され結婚して家庭を守ることが、そんなに大切なことか!? それよりもっと大切なことがあるだろう。それは何をしてもどうせ死んでしまうこと、死んでしまう限り人生は生きるに値しないこと、そこから目を離して生きることが、最も不幸であると断言する。どうせ自分が仕事したって、しなくたって世の中はどうってことなく回っていくし、時間が経てば地球上のありとあらゆるものも全部なくなって、宇宙のチリとかすんだ。だから、もう何もかも無意味で、数十年そこらで死んでしまうのだから、何をやっても虚しい、虚しい、虚しい・・・・・・・。というのが彼の哲学のスタート地点である。

このように中島は死への感受性が非常に強いので、おそらく大半の人はついていけないのではないかと思う。

何を成し遂げようと、死んでしまい、その記憶すらも残らないのだとしたら、突き詰めて考えると生きることに意味も価値もないのかもしれない。人生に意味も価値もないという事実に目を背けず、それを前提に「どう生きるか」を考えるのが中島の哲学である。


一方で、ヴィクトル・フランクルという人物がいる。彼は強制収容所アウシュビッツの数少ない生き残りの一人である。
人間としての尊厳を奪われ、死が日常的である極限の状態の中で彼が導き出した哲学は「私たちが「生きる意味があるか」と問うのは間違っており、人生が人間に問いを発してきている。人間は人生の意味を問い求める必要はない。人間はむしろ、人生から問い求められている者なのであって、人生に答えなくてはならない」というものだ。

もし「生きる意味」というものが、自分の立てた人生設計に沿って追求され、実現されるものだとするなら、運命にもてあそばれる存在でしかなかった強制収容所の囚人たちには、そうした「意味」を追求する可能性さえ残されていない。
人間が生きる意味を問うのではなく、人間が人生に問われている。このコペルニクス的転回によって人生はいかなる状況においても決して無意味にはなりえないことが明らかになるとフランクルは主張している。

「私はいてもいなくても同じ」という考え方はニヒリズムを生み出す。生きることの虚しさをあえて直視して生きるのが中島の哲学、そもそも生きる意味を人生に求めるのではなく人生に意味を問われる者として生きるのがフランクルの哲学。

考えた方は違えど、いずれも絶望を起点として「どう生きるか」がテーマになっている点で共通している。