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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

ぼくは愛を証明しようと思う

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ぼくは愛を証明しようと思う。

ぼくは愛を証明しようと思う。



藤沢数希が恋愛工学をテーマにした小説を出したので読んだ。


以下、藤沢のプロフィールである。

理論物理学、コンピューター・シミュレーションの分野で博士号取得。欧米の研究機関で教鞭を取った後、外資系投資銀行に転身。以後、マーケットの定量分析、経済予測、トレーディング業務などに従事。 また、高度なリスクマネジメントの技法を恋愛に応用した『恋愛工学』の第一人者でもある。


実に胡散臭い。


全ては単なる言葉の羅列で、何もかもそういう設定の妄想なのではないか、全ては創作でネタなんじゃないかと思ってしまうような経歴である。
藤沢数希という名も偽名だろう。


このたびなぜ僕が本書を手に取ったかというと、そのタイトルに惹かれたからである。


これが「恋愛工学マニュアル」とかだったら僕は手に取らなかっただろう。


「ぼくは愛を証明しようと思う」


実にうんこ臭いキモイタイトルである。



「愛」。



愛といえばクソログ。クソログといえば愛である。


「恋愛工学」というのは一言でいってしまえば、不特定多数の女をあの手この手で洗脳して、ナンパにおける歩留まりを向上させ、ヤれる確率を高めるという、ぽこちん工学である。
で、女も洗脳されて幸せなんだからそれでいいじゃん、っていう。

結局のところ如何にして女にたまきん汁を放出し、脳内を快楽物質で満たすことができるかに焦点が当てられたノウハウである。

別にそれ自体を否定したいとは思わない。結局のところ人間の目的は食べることとセックスをすることの2つなんだ。

ただ、そこに「愛」があるのか、僕にはずっと疑問だった。


物語は主人公「わたなべ」が意中の女に酷い振られ方をするところからはじまる。

わたなべは結婚も視野に入れて誠心誠意尽くして付き合っていた女に、浮気をされ、クリスマスに高額なバッグを買わされたあげく、最終的には着信拒否・LINEブロックという無言の別れを突きつけられてしまう。

一途に愛していたにも関わらず。

僕自身もこれに近い経験をしたことがあるし、似たような経験をした人間は1人や2人ではないだろう。その数たるや計り知れない。


女ってほんとクソだな - クソログ


「男の腐ったような」という言葉は存在しないが、「女の腐ったような」という言葉があるように、なぜ女という生物はこれほどまでに普遍的にソフトウェアに欠陥があるのだろうか。

こんなことを言うと決まって鬼の首を取ったかのようにどや顔で「主語がでかい」などというつまらないコメントをしてくるゴミがいるが、無論、男にクズがいないなどと言いたいわけではない。
男にもクズはいる。だが、なんというか男には分かりやすい清々しいクズが多いのに対して、どうも女には腑に落ちないクズが多い。
一途に自分を好いてくれる男を平気で裏切り、まるで最初から存在しなかったの如く切り捨てる。

こうした女の舐め腐った行動を理解するのに恋愛工学は新しい示唆を与えてくれたと思う。

非モテの男が1人の女に対して一途に好意を抱くことを、恋愛工学の造語で「非モテコミット」という。こうなると男は絶望的にモテないという。

恋愛工学によると、「非モテコミット」がモテないのは単に周りが見えていないからというだけでなく、どうやら生物学的な背景があるらしい。
というのは、遺伝的に男はたくさんの女とセックスをすることが繁殖戦略であることに対して、女には子供を育てられる数や期間が限られていて大変だから、生き残れる確率が低い子供や、生き残って成人しても繁殖に失敗するような非モテの子供は本能的に産みたくないと思っている。
女は男と違ってとにかくなるべくたくさんセックスをするというのが繁殖戦略にならないのである。
限られた子供を産めるチャンスを最大限に活かせるように、相手の男を注意深く選ぶ性質が女には備わった。
売れ残ってるくせに、やたら理想が高い勘違い女が多いのもそのためだろう。

つまり「非モテコミット」状態になっているということは、繁殖能力の低い男であることを自ら女に告げているのと同じであり、皮肉なことに男の一途な好意が、女には「他の女に全くモテない遺伝的に劣ったキモイ男と感じる」という理屈である。

一途であることで男側の相対的な価値が低下し、女側はそんな価値の低い男の遺伝子は残したくないと本能的に察する。

女にモテるにはあたかも他の女からモテているかのように振る舞う(優秀な遺伝子を持っているかのように振る舞う)ことが最適な戦略となるのである。

「非モテコミット」の他にも「わたなべ」は先駆者である「長沢さん」に恋愛工学のテクニックを教えてもらうことで、非モテを脱却し、人生を劇的に変えていく。
(おそらく「わたなべ」と「長沢さん」のキャラクターは村上春樹のノルウェイの森から拝借したものと思われる。ちなみにノルウェイの森の「わたなべ」も非モテコミット状態で、結局女はわたなべを残して自殺した。)


恋愛工学を駆使した主人公も駆使しなかった主人公も「同じ人間」なのに、その如何によって女は好きになったり、嫌悪したりする。

女は1人の人間を心から愛していたときに残酷な仕打ちをし、1人の女に尽くさず恋愛をゲームのように考えている人間を愛した。皮肉なことに。

どちらも「同じ人間」なのに。

そこに本質的な「愛」はあるのだろうか。たとえ意中の相手を射止めたとしても、そこにあるのは本能的な好意と空虚な快楽だけじゃないのか。

「愛」とはそうしたものを超越したものであってほしいと僕は願っている。

「全ての遺伝子が利己的であるという説が正しければ、生き物はみな本質的に孤独なんだ。
こうして集う水鳥たちも、人間だって、一人ぼっちなんだ 生まれてくるときも、死ぬときも」