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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

無垢な人間に憧れて

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たまに「真面目だね」と言われることがある。

「真面目」と言われて良い気分になったことはただの一度もなかった。
なぜなら、その言葉の裏には「頭が固く融通の利かないつまらない人間」だという皮肉が多分に含まれているからだ。
「真面目」だという烙印を誰かに押されるたびに、僕は密かに傷ついてきた。
なぜなら、そうした「真面目」である自分自身の性質を変えることはできないと知っていたからだ。

そんなとき、救いだったのはたった一つの物語だった。

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)


漱石自らが「自己の心を捕えんと欲する人々に、人間の心を捕え得たるこの作物をすすむ」と宣伝したこの物語の中心にあるのは、「信じるこころ」だ。

金銭関係のことで、叔父に騙されてしまった「先生」は、そこで、「人間」の醜さを思い知らされる。
では、叔父が特別悪人なのか。そうではなかった。


悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。
少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
だから油断ができないんです。

叔父に欺かれた当時の私は、
他(ひと)の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。
世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。
それが K のためにみごとに破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。
他に愛想を尽かした私は、
自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

いざという間際で親友であるKを裏切ったことで、最も忌み嫌う人間、そうはなりたくないと心底思った人間と、本質的には自分も同じだということを「先生」は思い知らされた。同じ「こころ」を持っていた。

そんな「こころ」が自分自身にもあったのかと思い知らされる衝撃は、他人に騙されたときの比ではない。
普段は、誰かをだましてやろうだなんて思っていなくとも、いつもいつも、誰にも彼にも「悪人」である人はいなくとも、むしろ善い人だった人が、いざとなった間際に、追いつめられたり、欲に目がくらんだり、荒波がいくつも重なってしまったりすると、自分でも驚くほどに、冷たい心、醜い心、汚い心が顔を出す。

そういう心は、特別な人、特に悪い人だけのことじゃなく、誰しもが持っている「こころ」。

私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。

そうして先生は自分自身を信じることができなくなった。

自分自身さえも信じられない人間が他者を信じられるはずがない。
他者を信じられない人間が他者を愛せるはずがない。
信じていたものが、信じられなくなるということは、愛していた、愛している人を、抱きしめられなくなってしまう。
「先生」は最も愛する「奥さん」にすら、心を開くことができなかった。
孤独だった。奥さんが孤独であることも知りつつ、自分の孤独にも耐えがたいほどの悲しみを感じつつも、最期まで自分の心を打ち明けることができなかった。

人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、
それでいて自分の懐に入ろうとするものを、
手をひろげて抱き締める事のできない人、
――これが先生であった。


自分の過去を打ち明けてもいい。そう思えた人間はただ一人の青年(「私」)だった。


「私は何千万人いるという日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいの です。
あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たい と云ったから。 」

先生は青年に念を押す。


「あなたは本当に真面目なんですか
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。
 だから実はあなたも疑っている。
 しかしどうもあなただけは疑りたくない。
 あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。

 私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。
 あなたはそのたった一人になれますか。
 なってくれますか。
 あなたは腹の底から真面目ですか」


自分さえも信じられなくなった「先生」が自分の過去を託せる人間として求めたのは、賢いことではなかった。要領が良いことでもなかった。ただ「真面目」であることだけだった。

「私」が「真面目」であること。それだけが先生にとって、救いだった。

もし、あなたが「真面目」であることで悩んでいるのなら、「真面目」であることは、なんら恥ずべきものではないということを声を大にして言いたい。
この世界中で、誰も信じられない人間にとって、たった一人の「私」になれるのは、真面目であるあなただけなのだ。