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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

「自己責任」を否定していては本当の意味で貧困を脱け出すことはできない

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kentaroupeace.hatenablog.com

やれやれ。

「脱社畜」の次は「脱貧困ブログ」ですか。

実にまあ、次から次へと湧き出てくるもんですなあ。


近代は、自由を至上の価値とする社会で、僕たちは誰の強制も受けず、自分の人生を自分で選択することができる。これが僕たちの生きている世界の根源的なルールで、何人たりともそれを否定することは許されていない。
このことに関しては言及先の人も同意いただけるのではないかと思う。

「自由」とはなにをしてもいいということではなくて、人はみな選択の結果に対して責任を負わなくてはならない。自由と責任は一対の概念だから、原理的に、責任のないところに自由はない。

貧困の問題を語る際に、自己責任を問うことを許さない人たちがいる。
でも、それで本当に貧困から抜け出すことができるのだろうか。
相手を責任の主体として認めないということは、奴隷か禁治産者として扱うことだ。人が尊厳をもって生きるためには、自分の行為に責任を持たなくてはならない。

自己責任を否定する人たちは、決まって国家や会社や制度を非難する。
だが、理不尽な現実をすべて国家や会社や制度の責任にしてその解決を求めるのはきわめて危険な考え方だ。
貧困の責任を自分以外の他者に求めようとすると、お金の使い方を決める自由をその他者へ売り渡すことになるからだ。これは貧困に限らず、あらゆる行為について成り立つ。行為の責任が少しでも他者に転嫁されるのなら、その分だけ個人の自由は制限される。自由と責任は表裏一体の関係であり、切り離して考えることはできない。

人が本当の意味で自由でいるためには、自分の行動に責任を持たなくてはならない。自己責任は、自由の原理で、それを否定するならば、残るのは無責任か連帯責任しかない。