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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

要はフローとストックのバランス

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僕のブログを通しで読んでいる人は知っているかもしれないけれど、youtuberだとか、プロブロガー、ノマドワーカーみたいな人たちを結構冷めた目で見てるところがあるんだけど、これには僕なりの考えがあるんだよ。
君たちは僕のことを新しいものを受け入れられない老害って罵るかもしれないけど、こうした人たちのことを認めて無いわけじゃないんだ。

今までの日本社会って今以上に超ストック型社会で、学歴の高い人、資格を持っている人、長く勤めあげた職歴を持つ人、とにかく多くのストックを持つ人が有利な社会だったんだ。
そうした背景から、中心権力の存在しないインターネットではフロー的な生き方をする人の声がものすごく大きくなった。

これはある調査で分かっていることなんだけど、実は勤勉だとされている日本人はアメリカ人よりも会社を憎んでいることが明らかになっている。それもそのはずで、一昔前の日本の労働市場は流動性が低く、一度レールから外れてしまうと、這い上がるのが極めて難しかった。それが日本人の超ストック型の生き方にもつながっている。

そこにストック型社会とは対照的なインターネットが普及した。
会社嫌いな日本人が多い中、フロー的な生き方を推奨する人が出現するのは必然だったんだ。

で、皆うすうす分かっていることだと思うけれど、ストック型の生き方よりもフロー型の生き方の方が遥かにリスクが高い。
これは、検索エンジンのアルゴリズムが変わってブログのアクセスが減るかもしれないみたいな瑣末な話じゃなくて、ストック型に比べてフロー型の生き方は圧倒的に歴史が短いからなんだ。

youtuberやプロブロガー、ノマドとして定年とされる年齢まで働いた人はいない。つまりそれだけリスクを予測しにくいってこと。
そうした生き方をブログなんかを通じて無責任に勧めるのは、やっぱり良心が痛むんだよ。

僕も一個人に対してであれば、「組織なんかに依存せずに自分で自分の食い扶持が稼げるのが理想的だよね」って言うことができると思うんだよ。でも、ブログを通して不特定多数の人たちに対して同じことが言えるかというと、やっぱり言えない。その人たち全てがそういう生き方をするのは無理だっていうのが分かっているから。全ての人がフロー的な生き方をすると、社会全体として成り立たないって考えると、もう書けない。迷いが生まれてしまうんだよ。

例えば、脱社畜を謳っているブログなんかがあるんだけど、じゃあお前がブログ書くために使っているパソコンは誰が作ってるの?って話になるわけですよ。
パソコンに限らず、会社に所属してリスクをとったり、コミットしている人がいるからこそ、そうしたものが便利に快適に使えているわけで、全ての人がノマドワーカーなんかになったら、そうしたものは生まれないし、社会は成り立たないわけで、全ての人がノマドワーカーになれないのに、不特定多数の人に向けて社畜なんてやめようって言うのはおかしくね?と思うわけ。

で、フロー的な生き方をしている人たちの声が大きいとどうしても、会社を辞めて独立するか、社畜を続けるかみたいな二つに一つみたいな極論が多くなるんですけど、どちらかを選ぶ必要なんかなくて、自分の人生の中のフローとストックのバランスをどう考えるかが重要だと思うわけですよ。

ちきりんや脱社畜の人がフロー100%な生き方ができるのは、それまで貯めこんだ強力なストックがあるからなんだ。ちきりんならMBAという資格やマッキンゼーという職歴、脱社畜の人なら東大卒といったように、強力なストックがある人は、いくらでも選択肢があるので、フローの割合を増やしてリスクをとることができる。

一方で、ストックがほとんど無い人は、フロー的な生き方をするよりも、ストック型の生き方をした方がはるかに安全で、かといって、フローを0にする必要もなくて、10のうちフローが1でもあれば、ストックが10の場合よりも精神的なセーフティネットになってくれるかもしれないし、運が良ければ会社に依存しないお金も稼げるようになるかもしれない。
それに、いざフローの割合を増やそうと思ったとき、ちきりんみたいに、それまでストックしたものが活かされる場合が多いんだ。
若くして芥川賞をとってそのまま作家になった人が小説を書けなくなってしまうのは、経験というストックが枯渇しちゃうからなんだよ。

結局、フローとストックどちらの生き方が良くて、どちらの生き方が悪いってことは無くて、要は、フローとストックの割合を自分の人生と照らし合わせてどう組み合わせていくかが大切なんだ。

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