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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

俺、意識高すぎわろたぁ

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「僕は君たちに武器を配りたい」という本を読んだ。

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

著者の語る武器を一言であらわすと、それは「リベラルアーツ」、すなわち教養のことである。


僕はかつて理系の学校に通っていたのだけれど、「教養なんて何の役に立つの?」『教養で飯食えんの?」みたいなスタンスの人がほとんどだった。


そもそも教養が役に立つとか立たないとかっていう話そのものがナンセンスだと考えている人もいるかもしれないが、あえて役に立つか立たないかを前提に考えてみたい。

グローバル化による資本主義社会では代替可能なものは労働力も買い叩かれる運命にある。
ビジネスマンにおける3種の神器と呼ばれるITも会計も語学もその例外ではない。
グローバル化により日本内では経済格差が広がったかもしれないが、逆に言えば外国との経済格差が小さくなったのだ。
差別化できないものは、値段がつけられるということだから、その値段で働いてくれる人間ならだれでもいい。
例えば外食産業が低賃金なのは、誰がやってもだいたい同じで労働者としての付加価値がないからだ。
こうした他者と差別化できず均質化してしまうことを「コモディティ化」という。

著者の主張は「コモディティになるな」ということであり、資本主義社会における働き方について6つに分類している。

・トレーダー

・エキスパート

・マーケター

・リーダー

・イノベーター

・インベスター

このうち「トレーダー」と「エキスパート」の価値は下がっていくと著者は主張している。
その簡単な理由として、「トレーダー」とは右から左に物を移して利鞘を得るという稼ぎ方であり、付加価値がつけられずコモディティ化しやすいというもの。
一方で「エキスパート(専門家)」は一見価値が高そうであるが、資本主義社会で稼ぐという点において時代の変化の速さの前に陳腐化してしまいがちだという。
時代の変化とともに専門知識が無用の長物となってしまうのだとしたらやはり、人を自由にする学問、「リベラルアーツ」の概念からは程遠いのだろう。

マーケター、リーダー、イノベーター、インベスターに共通するのはコモディティ化しにくいというのもあるが、俯瞰的な物の見方や考え方が要求されるという点である。つまり「木を見て森を見ない人」にこれらの仕事は務まらない。だからこそ抽象度が高く、不変的で普遍的な「教養」が活きてくる。
抽象的だからこそ教養は不変的であり様々なことに応用可能なのだ。

「インベスター」とか「イノベーター」みたいな働き方をはじめ、結局高学歴で能力もあるエリートにしか「教養」なんて活かせないのでは?って感じだけれど、僕個人としては「教養」は仕事以外にも活かせるんじゃないかと思っている。


例えば自分自身を俯瞰し人生全体のストラテジーを考える上で教養は役に立つ気がする。
教養は基本的にいつの時代にも通ずる普遍的なものだからだ。
仕事はバリバリこなしていても私生活はめちゃくちゃだったり、高収入なのに貯蓄が全くなかったり、豚みたいにぶくぶく太ってたり、はたから見て生き方が下手糞な人がいる。

それはそのはずで、どんなに仕事の専門知識があったとしても、その仕事をすることが自分にとって幸福な人生かどうかという問いには答えてくれない。
どんなに人が羨むような尊敬されるような仕事をしていたとしても、それが自分自身にとって納得のいく人生かどうかなんて分からない。
教養がそれを教えてくれるわけじゃないけれど、それをヒントにして自分の人生に組入れていくことはできる。
仕事に人生のプライオリティを置かない人はいっそ競争から降りてミニマムに生きるといった選択肢だってあるだろう。
教養がなければそうした選択肢も見えてこないし戦略も立てられない。

教養が直接、飯を食わせてくれるわけじゃないけれど、なんのために飯を食わなきゃいけないのかといった問いにはやはり教養が答えを導いてくれると僕は思っている。