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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

なぜ物書きには人間のクズみたいなやつが多いのか

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今週のお題「書くこと」


実感として物書きには人間のクズが多いと感じている人もいるのではないだろうか。

例えばブロガーにしても、やれニートだ、引きこもりだ、無職だ、社会不適合者だ、そんな人間が多いように思う。

作家にしても萩原朔太郎、石川啄木、太宰治、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成、大江健三郎、最近で言えば田中慎弥などなど・・・、非常識な人間ばかりだ。

どうも他の仕事、あるいは趣味に比べて「書くこと」という点において人間のクズが幅を利かせている節がある。

なぜ物書きには人間のクズが多いのか。
これには理由がある。

理由の1つは「物書き」が人に残された最後の仕事だからだ。

極論を言えば、「物書き」は鉛筆と紙さえあれば誰にでもできる。
「今日から僕は物書きだー」と何かを書きはじめれば、その人はもう物書きである。
だから、物書きには様々なバックグラウンドを持った人がいる。
医師から物書きになった人、新聞記者から物書きになった人、教師から物書きになった人、編集者から物書きになった人、官僚から物書きになった人、政治家から物書きになった人、科学者から物書きになった人、経営者から物書きになった人、元犯罪者で服役後に物書きになった人、ギャンブラーから物書きになった人、風俗嬢から物書きになった人など、物書きへの道は物書きの数だけバラエティがある。

しかしその逆はほとんどいない。作家から政治家になった人がわずかにいるくらいのもので、物書きから医師や教師になる人はほとんどいない。

これが、物書きが人に残された最後の仕事だと言われる所以だ。
食っていけるかどうかは別にして、人間のクズにも勤まるのが物書きなのである。

服役囚でも、入院患者でも、死刑囚でも、亡命者でも、犯罪者でも、引きこもりでも、ホームレスでもできる仕事や趣味は物書きしかない。

だから物書きには人間のクズが比較的多いのだ。


もう1つの理由として、クズであることこそが、物書きとしての資質に深く関わっているという点が挙げられる。

「物書き」には繊細な人間が多いように思う。彼らは普通の人が何気なく感じている世界を細やかにとらえ、巧みに描写している。
が、そうした気質は実社会において不利になる場合が多い。感受性が強く、硝子細工のような精神世界を生きている繊細な物書きにとって実社会は生きづらい世界なのである。

そして社会的に使い物にならないそうした人間たちはクズとされている。

「物書き」に求められるたった一つの条件は、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。
つまり、世間と同じような生活をし、世間と同じような考え方をし、普通の人と同じように世界を見て、普通の人と同じ感受性を持っていては「物書き」として価値を生み出すことは難しいのである。

実生活を無難に生きるにはバランス感覚は非常に重要であるが、「物書き」としては過度のバランス感覚は致命的といえる。

皮肉なことに彼らは繊細で人間のクズであるがゆえに物書きとして価値を生み出すことができるのだ。

これも物書きに人間のクズが多い理由と言えよう。


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