読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

女に人格を求めるが故に「女嫌い」になるという皮肉

スポンサーリンク

私は芸術家志望の女性に会うと、女に天才というものが理論的にありえないということに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。

大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。
女性は劣等であり、私は馬鹿でない女 (もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。
また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山 いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。
こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な 女性に会ったことがない不幸な男である、という風に曲解して、私に同情を寄せてくる 女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。

私が大体女を低級で男を高級だと思うのは、人間の文化というものが、男が生殖作用の余力を傾注して作り上げたものだと考えているからである。
男は取り残される。 快楽のあとに、妊娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な文化の母胎であった。 したがって女性は、芸術ひろく文化の原体験を味わうことができぬのである。

女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽 と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の 現実主義。これらはみな女性的欠陥であり、 芸術において女性的様式は問題なく「悪い」 様式である。

女は子供のほかに何ものも生むことができない。
男は子供のほかのあらゆるものを生むことができる。
創造と生殖と繁殖は全く男性の能力であり、女の受胎は育児の一部分にすぎない。これは言い古された原理だ。

女の嫉妬は創造の能力に対する嫉妬である。
男の子を生んだ女は、これを育てることに、男性の創造の能力に対する甘い復讐の喜びを味わう。
女は創造を妨げることに生き甲斐を味わう。
贅沢と消費の願望は、破壊の願望である。
いたるところで女性的本能が勝利を占める。
はじめ資本主義は男性の原理であり、生産の原理だった。
ついで女性の原理が資本主義を蝕んだ。
資本主義は奢侈的消費の原理にうつりかわり、やがて戦争がはじまった。


女はいたるところに生存していて、夜のように君臨している。
その習性の下劣さは、ほとんど崇高なほどである。
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きずり下ろしてしまう。
女は主義というものを全く理解しない。
「何々主義的」というところまではわかるが、「何々主義」というものはわからない。主義ばかりではない。
女には独創性がないから、雰囲気をさえ理解しない。
わかるのは匂いだけだ。彼女は豚のように嗅ぐ。 香水は女の嗅覚に対する教育的見地から男性の発明したものだ。
そのおかげで男は女に嗅がれることから免れる。

女嫌いとは、人格としてではなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。
しかしながら、殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。
女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。
しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等はどんな場合に 於いても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。

「女嫌い」と呼ばれる人々は、女に対して単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格を、真面目に求めているからである。
それ故に女嫌いとは正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。
然り、すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直 なロマンチストにすぎないのである。