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クソログ

愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から……

なぜ彼らはカモメのジョナサンを目指したのか

headlines.yahoo.co.jp



3月22日。オウム真理教による地下鉄サリン事件から、22年が経過した。

現代の若者はなぜオウムのようなカルトに魅かれるのだろうか?
アーナンダと呼ばれた井上嘉浩被告は、初めての公判の中で、出家に至るまでの心境について次のように述べている。

「私は成長するに従って、私のあらゆる側面が自由のきかない管理システムの大きな渦の中で、既にレッテルを貼られ区別され固定され、抵抗するすべもなく自由を失い、絶望の中に沈んでいくのを学生の頃感じました。私たちを取り巻く高度に管理化されたハイテク社会がこのまま暴走を続ければ、私たちの精神は抑圧され荒廃し、近い将来、人類が愛を失い、大規模な破局を自ら引き起こしてしまうのではないかという切迫した危機感を高校生の頃、私は覚えるようになりました。」

すべてのオウム信徒が、社会に対するこのような強い危機意識を持っていたわけではないだろう。

しかし。彼らのほとんどが多かれ少なかれ、自分の人生や社会の在り方、死の意味などについて疑問や不安を抱いていた。
なぜ彼らはそのような疑問や不安を抱かざるをえなかったのであろう?
それは人間として生まれた者の宿命ともいえるが、とくに現代社会にあっては「価値基準の喪失」という問題が大きく起因しているように思われる。
よくいわれることであるが、戦後日本人は「モノ・カネ」に価値の基準を置いてがむしゃらに働き、世界の先進国の仲間入りをした。「貧しさ」や「病い」といったものがまだ私たちの切実な問題だったこの時代、物質的な豊かさが実際に私たちの幸福をある程度保証してくれた。

物質的な豊かさが当たり前となった70年代後半以降、その価値基準は人々を際限のない欲望充足ゲームに巻き込んでいく。それはやがてバブルの経済として一つのピークを迎えることになるが、その崩壊とともに「モノ・カネ」だけでは人間は幸せになれないのだということにようやく気づくのである。

しかし、一般の人々が物質的な豊かさを謳歌する中で、一部の若者たちは、欲望の充足をひたすら追い求める高度消費社会と、それを支えてきた高度管理社会というシステムに対し、「何かがおかしい」と感じ始める。彼らはおぼろげながらも「欲望」の本質に気づいてしまうのである。
その中の一人が井上被告だったといえるだろう。彼らは社会に対する言い知れぬ不安を感じていたに違いない。そして、その不安からの脱出するべく、新たな価値基準を求めて彼らは「自分探しの旅」に出たのである。

多くの理科系エリートたちが、現世的な利益を捨て、カルトに走った理由は様々であろう。しかし彼らが共通して抱いていたのは、自分たちが身につけた専門知識や技術をもっと深く有意義な目的のために役立てたいという想いであったのではないか。
彼らは、大資本や社会システムという非人間的かつ功利的なミルの中で、そのような自分たちの資質や努力が、そして彼ら自身の存在の意味までもが、無為に削りおろされていくことに対して、深い疑問を抱かないわけにはいかなかったのだ。

彼らは麻原という一人の人間の中に「悟り・解脱」という新たな価値基準を見出し、やがてその当初の目的とは正反対の「殺人」いう犯してはならない領域へと足を踏み入れてしまい、誠に不幸な結末を迎えることになってしまった。この事件は 風化させてはならない。こういう事件があったのだということを全ての人にもう一度、 考えていただきたい。

なんで…なんでこんなことになってしまったんやろうな

…紙一重じゃないですか
紙一重でみんな…


かもめのジョナサン: 【完成版】 (新潮文庫)

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